色を愛する

本質派コスメ カラフルオーガニック代表のつぶやき

そういえば自己紹介(子ども時代~結婚まで)

娘のアトピー以降の話は、何度か書いたことがあるのですが、それ以前のことは、書いたことがなかったかもしれません。せっかくなので書いておこうと思います。

 

わたしは、空想が大好きで、お絵描きが大好きな子どもでした。
3月生まれで、同い年の子に比べて身体は小さく弱く、ぼ~っとしていたけど、でも実は自分の意志をはっきり持っていて。
髪ゴムの色が黒紺茶に指定されている幼稚園では登園をしぶったりお腹痛くなったり。
引っ越して入った新しい幼稚園では、
幼稚園指定のスモッグに、母に頼んで大好きな絵本の大好きなページの絵を指定して、
スモッグの背中一面に、彩り美しく刺繍をしてもらって、満足して通いました。
(実はみんなはワンポイントの刺繍やワッペンだったらしい・・)



ピアノとお習字を習っていました。
字や絵は学校で褒められたり、学校の何かの行事の時には歌の伴奏をしていました。

高学年になると吹奏楽クラリネットを吹いたり、音楽の先生に恵まれてパーカッションアンサンブルのメンバーに選ばれて、どこかで受賞したりしたこともありました。

これはとても楽しかった思い出。
3歳下の妹がいて、私が小学4年生の時に弟が生まれて、3人兄弟の長女となりました。

 


生まれ育った熊本を離れて関東の地で生活の基盤を築いた両親。
父の通勤の便と環境を考え、千代田線沿線の千葉県、比較的のんびりした雰囲気の街に住んでいました。
商社マンの父と専業主婦の母は、長女の私に愛情をたくさん注いでくれましたが、

一方で、過干渉で私は常に勉強のことを厳しく言われて育ちました。
母は私の成績に一喜一憂で怒ったり泣いたり叩いたり、学期末で通知表をもらう日には、必ずひどい修羅場がありました。
中学時代は、そんな勉強へのプレッシャーと、今思うとなぜ入ったのかわからない運動系の部活とその人間関係、そして塾に明け暮れる毎日で、相当にストレスを貯めていた私の反抗期は長く酷いものでした。母に対してだけでなく、妹たちにも当たり散らしていました。細々と続けていたピアノもレッスン中に先生に居眠りされる始末で(練習できていない)、結局フェードアウト。
「この家では、いい大学に入らなければ人権がない」
「やりたいことも何ひとつさせてもらえない」
そう悟っていた私はひたすら勉強して、高校は進学校に入り、またもや勉強の日々で、慶應義塾大学文学部に合格しました。もうやりたくもない勉強と、両親の干渉とはおさらばしてやろうと思っていました。

 


鳥かごで飼われていた鳥が、ずっと憧れていた広い世界に飛び出すように、勢いよく外に出ていきました。後ろも振り返らず。大学の授業は必要最低限しか出席せず、とにかく遊びに遊び倒した大学時代。

 
そんな大学在学中に、10歳頃から夢見ていた「上海留学」の夢を叶えました。
実は10~11歳頃、「キョンシー」にハマり、それが高じて中華世界に興味を持つようになっていたのです。どこで調べたのか忘れましたが(どうぶつビスケットの箱の裏かな?外国語の単語が書いてありましたよね、昔)、小学生ながら、中国語も独学で勉強していました。
大学二年生のある時期に過呼吸症候群パニック障害を患ったこともあり、両親は留学先も、留学そのものにも最初は反対していましたが、北京1ヶ月短期留学を経て、ようやく上海長期留学にOKが出ました。
大学を休学して1年間上海に留学(1999年~2000年)した経験は、今でもわたしの土台となっている素晴らしい経験です。ちなみに、キョンシーは実は中国大陸の方ではなく、台湾の作品だとわかったのは、上海に住んでしばらく経ってからなのですけどね。

 


海外の学生たちと1年間をともにしてわかったことは、「自分」という人間が、とても空虚な人間だということ。そして「日本人としての自分」も空虚で空っぽなことでした。親に護られて勉強だけしてきて、自分の頭でものを考えたことのない自分。狭い世界の価値観を疑うことなく信じてきた自分。いや、違和感を無視してきた自分。世界史も日本史も勉強したはずなのに、世界のことも、そして母国日本のことすらも、何も語るべきものを持たない自分。これは40歳を過ぎた今もなお、考え続けていることです。もうひとつ言うと、この留学やその後の就職に対する両親や友人達の反応など、なぜ日本人はそのような見方をするのか、日中関係、日韓関係というのも、この時以来、ずっと考え続けることになりました。

 


帰国して大学卒業後、時代は超就職氷河期
今度は「大手企業に入りなさい」という両親からの干渉とプレッシャー、そして私自身も、経済力を持たなければ好きなことができないと感じていたこともあり、葛藤をしながらも、またもやレールに乗っかり、大手証券会社に入社しました。しかし元々興味もやる気も適性もない仕事。何よりも、心からオススメできないものを人に勧めることが嫌で嫌でたまりませんでした。
仕事での度重なる失敗や上司のパワハラ、極度の肌荒れ、心も病んで1年半で退社。
極度のストレスで心身ともに荒んだ生活になっていました。
その後は、中国語と、上海留学中に出会った韓国語の通訳・翻訳の勉強をしつつ、
語学をを生かした職種でいくつか転職を繰り返し、LED開発のベンチャー企業で韓国出張などをこなすことに。刺激的な日々でした。

そして、都内にある台湾の芸能関係の会社に落ち着いた頃、今の夫に出会い結婚。夫は同じ九州・鹿児島の出身でした。目をすごくキラキラさせて、今思えば、愛鳥のインコさんたちのようなウルウルキラキラした目でこちらを見ている夫に、私にはない魂の純潔さを感じたんですね。そしてお互い自由にやりたい人たち。そのあたりの感覚も同じで楽でした。久しぶりに訪れた平安の日々でした。そして1年後に妊娠がわかり、不規則なスケジュールの仕事だったこともあり、29歳で退社しました。

 
退社から3ヶ月後、2008年にめでたく娘が誕生。
アトピーと夜泣きがひどくて途方に暮れる日々が始まりました。